ジョルジュ・バタイユ、『眼球譚/マダム・エドワルダ』、講談社文庫

 評論を除くと、これが僕の初めてのバタイユだった。

 まあなんとも驚くほど、エロい。猥褻とかではなく、エロいと言ってしまいたくなる。古文書学校、コジェーヴの生徒、みたいなイメージが吹っ飛んで、身近に感じたのだ(下司い感想だが)。

 

 主人公の「私」は、シモーヌという女の子と懇意になる。シモーヌとは、私とはかくかくで、しかじかの事情があり、みたいな七面倒くさいことはすっ飛ばして、はじめからアクセル全開で変態行為が開陳されていく。血と汗、尿と精液が乱れ飛び、生と死、摂取と排泄、人間の根源的なすべてが、性の怪しい輝きのもとで混ざりあう。

 開始8ページで二人は、純粋な少女マルセルを(勿論性的な意味で)もみくちゃにし、以降前半では、セックスのデモンに取り付かれたミューズとも言うべきシモーヌ、その協力者でありしもべである「私」、翻弄される可憐な犠牲者マルセルの3人を中心に、性的遊戯のロンドが展開される。シモーヌの家で乱痴気騒ぎをやらかした結果、「私」は家出をしてシモーヌの家に居候し、マルセルは精神病院に隔離される。マルセルの不在の中、「私」とシモーヌは、彼女こそが彼らの遊戯を完璧なものにしていたことを痛感し、マルセルを連れ戻すことを決意する。一度失敗した後、二人は彼女を救い出すのに成功するのだが、ほどなくしてマルセルは自殺してしまう。乱痴気騒ぎの際、この上ない恐怖を味わわせた張本人が「私」であることを悟ってしまったからだ。

 二人は警察沙汰を免れようと、イギリス人の変態紳士(エドモンド)の援助を当てにして、スペインに赴く。シモーヌはマルセルの死以来、倦怠に取り付かれている。彼女の目下の興味は、益々激しさを増す性的放埒と、闘牛であった。闘牛の放つ死とエロスの匂いが彼女を、そして語り手を、興奮させるのだった。シモーヌはある日、闘牛で殺された牛の睾丸を食らう習慣のことを聞き及び、非常な興味を示す。闘牛士グラネロによって睾丸はもたらされる。シモーヌは我慢できず睾丸にかぶりつき、と同時にグラネロは牛に突かれ絶命し、シモーヌは絶頂を迎える・・・。

 倦怠に憑かれたシモーヌの要望で、3人はセビーリャに向かう。ドン・ファンの墓のある教会に3人は入り、そこでシモーヌは牧師に告解を申し出る。牧師を誘惑するシモーヌ。牧師は連行され、無抵抗のまま陵辱され、殺される。抉り取った死体の眼球を、自らの中に入れるシモーヌ。「私」はシモーヌの性器から覗く眼球に、マルセルの薄青色の眼を認めるのだった・・・。

 

 まず言っておきたいのは、少なくとも僕が読んだ印象として、この物語に、所謂リアリティが欠如しているということ。シモーヌを中心に織りなされる限りない放埒は、まず社会的に許されないだろうし(cf. 『恐るべき子どもたち』)、そこに心理的な葛藤が完全に欠落していることも、冷静に見れば余りに異常だ。しかし、我々はこの小説の中に、あるリアリティが存在することも否定できない。我々が直視することを避けているもの。しかし、この小説の中で、あまりに直裁に、豊饒に表現されているため、直視せずにはいられないもの。それは、「侵犯への意思」ともいうべきものだ。『眼球譚』は、道徳が欠落した一種のユートピアの中で、この意思を自由に羽ばたかせる実験とも読める。

 侵犯とは何か。それは、絶対的なタブーを冒すことである。辿り着くことが禁止されているものを、それが禁止されているが故に希求すること。「私」の重要な省察を引用しておこう。

私が好きなのは「穢らわしい」と看做されているものだった。逆に、通常の放蕩ではけっして充たされなかった。なぜならそれはただたんに放蕩を穢すだけで、いずれにせよ、高尚な完璧に清潔ななにものかは無疵のままで残されるからだ。私が体験する放蕩は私の肉体と思考だけでなく、放蕩の対象として考えうる一切のものを穢し尽くすのだ、とりわけ星輝く大空を・・・

 さてここで、エロスとタナトスは、聖と死をともに侵犯しようとするものである点で、重なりあう。この二つは作中に偏在するが、現れの仕方がすこし異なるのは注意しておいていいだろう。性の営みはほとんど常に、二人の中心的な人物によって、為されている。しかし、死ぬのはいつも他人である。このことは、次の様に説明できるかもしれない。セックスとは、互いの肉体という障壁を突破し、合一しようとする戦いである。セックスする二人の人間は、一つの意思として存在し、ここでは自他が溶解しつつある。侵犯する行為において自他の区別が曖昧になるのだとすれば、それは死においても然りだろう。マルセルの、グラネロの、神父の死を、「私」とシモーヌは我がことのように貪るのだ。

 しかし、この侵犯行為の果てに何が待つのか。倦怠である。侵犯されたタブーは、原理的にもはやタブーではありえない。だから、侵犯への意思の権化であるシモーヌは、新たに蹂躙する対象を探すことでしか、自らの存在意味を認めることができないのだ。この衝動が、物語の進行を決定づける。そして、その動力は、エロスとタナトスであり、それは性的衝動と暴力によって表現される。この小説を、幾つかのセクションに分けるとすれば、以下の様になるだろう。すなわち、①導入〜マルセルの陵辱②マルセル奪還〜マルセルの死③闘牛④ドンファンの教会。こうしてみると、大まかなテーマ群が見えてくる。①、②では、一般的な道徳に関するタブーに対する侵犯が問題になる。同様に、③、④ではそれぞれ、死と、聖なるものが侵犯の対象となる。

 小説の流れに沿って、もう少し詳しく見ていこう。マルセルは、「私たちの友人の中でいちばん清純で、いちばん可憐な」(p. 20)少女である。このマルセルを陵辱し、また性の放埒の中に引き入れること、この侵犯行為があってこそ、その行為の絶頂感は「激しさの点で、かつて想像した何物をも凌ぐ」(p. 39)のである。マルセルが狂気に陥ること、そして最終的に自殺することは必然だ。なぜなら、彼女は永遠に無垢であることが必要だからだ。そしてマルセルは首をくくる。ここで死への侵犯というテーマが導入されるのだが、この時点では展開されない。何故か?それは、マルセルの死は人知れず行われるからだ。「私」にとって、倦怠は、すべて死に結びつく(p. 77)。死とは侵犯の結果であるが、あるタブーが侵犯されたとき、そのタブーはタブーではなくなる。つまり、侵犯は侵犯ではなくなるのだ。また、語り手は、死は死者を「全権を有する」ものにすると言う。死によって、人は、イメージと、名と化す。そうしてマルセルは二人の中で永遠性を帯びることになるのだ。

 さて、二人の主人公が死を激烈に体験するのが、スペインの闘牛の場面である。闘牛士の身を躱す姿の中に、観客は、セックスの、全身的投入感を感じる(p. 83)。ここで戯れているのは死であるが、性による生の高揚と死の勝鬨は、侵犯の哲学においては存在の突端として合一するのだ。こうした対立する様々なイメージは、シモーヌの持ってこさせる牛の睾丸に濃縮される。睾丸は生殖器であり、また牛の死の象徴である。赤白く光る睾丸はまた、現実離れした光を投げかける、圧倒的な太陽と重なりあう。牡牛の角がグラネロを貫き、その眼球が眼窩からこぼれ出るのと全く時を同じくして、シモーヌは片方の睾丸にかぶりつき、もう片方を女性器の中に取り込む。侵犯による超越がまさしく果たされた瞬間として、この場面は鮮烈なイメージを残す。

 最後に二人が侵すのは、聖なるものだ。先ほど死が性的なもので置き換えられた様に、聖なるものも性的なものによって置き換えられる。エドモンドは言う。聖体パンはキリストの精液であり、葡萄酒は尿なのだと。死に対するほどの厳かさはここにはなく、むしろパロディックであることに注意していいだろう。バタイユは経験なクリスチャンから無神論者へと転身したというが、彼のクリスチャニスムに対する態度が伺えると言ってもいいのかもしれない。

 ここで付言しておきたいのは、便宜上われわれは道徳、死、聖なるものとして侵犯の対象を分けたのであるが、物語の構成上テーマが分たれるように見えるにせよ、その三つが必ずしも截然と分かれるわけではないということは当然だろう。

 

 さて、この物語の名は『眼球譚』であるが、では「眼球」とは何なのか?一つには、物語に構造的統一性を与えるライトモティーフとして機能していると言えるだろう。卵、睾丸、太陽、尻、様々な白く、丸みを帯びたものたちに対する特別なフェティッシュが、シモーヌの動因になり物語を引っ張っていく。しかし、僕の感想としては、それが眼球でなくてはいけなかったかというのは疑問符だ。確かに最後の女性器から覗く眼といったイメージは強烈だが、眼球に対してそこまでの意味は僕には見出せず、その点でこの眼球の物語には少しの破綻が見える気がする。あとがきに書いてある様に、本当に眼球に対するオブセッションのみが理由であるとしたら、その他のイメージの結びつきが緊密で強烈である分、少し興を削ぐ。しかし、その僅かな痂皮(僕に取っての)が気にならないほど、エンターテイニングで、かつ深く、充実した書物だった。

 僕の所有しているのは講談社文庫版なのだが、リンクには河出のものを貼っておく。

 

眼球譚(初稿) (河出文庫)

眼球譚(初稿) (河出文庫)

 

 

ポール・オースター 『幽霊たち』 新潮文庫

ポール・オースターという名前はずっと気になっていた。

現代アメリカを代表する作家、ベケットとの親和性、云々。様々な情報は耳に挟んでいたのだが、実際に読んだのはこの『幽霊たち』が始めてだった。全体的な感想としては、全面的に大賛成、大好き、という感じではないが、面白いと思う点は沢山あった。

僕自身整理するためにも、粗筋を書いておく。私立探偵のブルーが、ホワイトという男の依頼によって、ブラックという男を見張ることになる。ブルーはブラックの部屋の向かいに部屋を借り、ブラックの行動を逐一報告書に記載し、それをホワイトに送る。しかし、ブルーが見張っている間、ブラックはほとんどずっと自室で書き物をしているだけである。それ以外の行動と言えば、必需品を買いにいき、ソローの『ウォールデン』を読むくらいのものだ。ブルーは徐々に、ブラックの、ホワイトの意図、この依頼の意味をいぶかしむ様になる。彼は様々な物語を考える。ブラックとホワイトは裏で繋がっているのではないか・・・。監視の日々は続き、徐々に彼は、ブラックと奇妙な一心同体の状態になっていることに気づく。ブラックが何をしているのか、実際にそれを見ることなく理解できるようになっているのである。彼は行動に出る。報告書を受け取りにくるホワイト、または彼の代理人を待ち受け、変装してブラックと接触する。その結果、彼は確信を得る。ブラックとホワイトは同一人物である。ブルーはブラックの部屋に入り、机の上の紙束を持ち帰る。それは彼の報告書である。ブルーは、ブラックの部屋に入ることを決める。部屋の中にいるのは、拳銃を持ったブラックだった。ブルーはブラックに問う。何のために自分は必要だったのか?ブラックは言う。

自分が何をしていることになっているか、私が忘れないためにさ。(…)いいかね、ブルー、君は私に取って全世界だった。そして私は君を、私の死に仕立て上げた。君だけが、唯一変わらないものなんだ。すべてを裏返してしまうただ一つのものなんだ。 (p. 118)

 ブルーはブラックの行為に賛成せず、殺してみろとばかりに詰め寄る。ブラックは撃たない。ブルーは彼をしたたかにぶちのめし、去っていくところで物語は終わる。

予め告白しておくと、僕はこの小説の意味(漠然とした言葉だ)はよく分からなかった。一応一言言っておくと、ブルーとブラックはカードの裏表のような関係であり、監視しているブルーは監視されており、云々。という話が裏側にはあるのだろう。と、ひとまずは逃げておく。オースターの他の作品を読めば見えてくることも多いようだし、あまりアホなことを言っても誰も得しないしね。

解釈すべきものは多分沢山あって、しかし正直あまりそこに興味はそそられなかった。僕にとっての文学の一つの大きな喜びは、言葉が、言葉によって還元されてしまうような観念を、突き抜ける瞬間にある。だから、謎解きはそれはそれとして面白くて、隠された意味というか、構造による支えのない小説というのも詰まらないのだけど、単なる暗号で終わってしまう様な小説も詰まらない。そう言う意味では、この小説に関しては、僕自身の第一印象では、すこし観念的だなと思わないでもなかった。

しかし面白いところも沢山あったのも事実だ。思いつくままに書いてみよう。まずは語り手の距離感だ。視点はほぼブルーに固定される。しかし、そんなものは単なる約束事で、あまり重要ではないのだという風に、視点は時に軽やかにお約束から遊離する。「先ず始めにブルーがいる。(…)物語はそのようにして始まる(p. 5)。」具体的な物事を語るのが物語であれば、その物語それ自体を相対化し、抽象化するこの語り手は一体なんなのか?少し構造的なところに眼を向けてみよう。小説は現在形で進行する。現在形とは不安定な時制だ。語られるものごとは、未だ首尾一貫した「物語」になっていないのだ。また、三人称小説において、地の文は、原則として、客観的な真実を語る。さて、ブルーの彼女は、「未来のミス・ブルー」という風に言われるのだが、これは誤りだ。彼女とは破局するのだから(「かつての未来のミス・ブルー」!)。事実はかくかくという事実として現実に定着されていない。現在形の文の積み重ねは、点描の様にデジタルに物事を描き出してゆくのだ。物語は始まる。しかし、物語がどこへ行くのか、ブルーも、読者も、語り手も、誰一人ご存じないのだ。この文体のあげる効果は、小説のテーマとも合っていよう。この点に関して僕は現代的だなと思ったのは、多分難しいことがされているんだが、あくまで印象は軽いのだ。大仰な実験臭や大義名分めいたものはない。狙っていたとしても、異化効果?なにそれおいしいの?みたいなポーズをするということ。80年代の「エレガントな前衛」(柴田元幸氏)って、こういうことなのかな、と思った。

こんな風に、技法的には結構アクロバティックな印象を受けたりしたのだけど、何気ない描写が上手いな、と思うところが沢山あった。特に補足もなく引用する。ブルーが彼女の浮気を目撃するシーン。「空が彼の頭上に落ちてくる」(p. 59)。ブルーはブラックのアパートに潜入する。「まるで毛穴を通して夜そのものが彼の内部に押し入ってきて、とてつもない重さをたたえて彼の上に座り込んでしまったかのように」(p. 106)。

あと、一見関係のないエピソードを連ねる手法。こういう手法はどういう系譜に連なるものなのかは分からないけど、それぞれのエピソードがアレゴリーとして、象形文字の様に機能するということ。この働きについてはもう少しつめて考えなければならないが、僕自身の思索を深める上で面白かった。

Björk "Vespertine"

 「メダラ」より後のアルバムは追えていないんだけど、ビヨークでは「ヴェスパタイン」が一番好きだ。

 というより、他のアルバムはいまいち乗り切れないというか、ちょっとついていけないな、と感じる時がある。ビヨークはコケティッシュであり、チャイルディッシュであり、デモーニッシュだ。男は平伏すしかない(女性は無条件に喝采、となるのだろうか?)。そういう押し出しの強さに、器の小さな男である僕としては、少し引いてしまうところがあるのだと思う。勿論、それは同時に、彼女に惹かれる理由でもあるのだけど。

 「ヴェスパタイン」のビヨークは優しい。日本盤のライナーには、セルマを演じた結果だろうと書かれていたが、そうかもしれない。いずれにしろ、愛とセックスが大きなテーマになっているのは間違いない様だ。英語版のWikipediaによれば、原題は「ドメスティカ」であったようだが、曲群が既にそれ自体十分ドメスティックであったため、祈りのニュアンスを持った「ヴェスパタイン」となった様だ。「ペイガン・ポエトリー」のビデオは、ラブライフがテーマであったという(実際に、彼女自身のプライベートのセックスの映像が素材となっている)。アップ・テンポでアジテートするビヨークも、コケティッシュな振り回すビヨークも、チャイルディッシュに笑うビヨークもここにはいない。彼女の半ば獣じみた純粋さが向かうのは、愛の喜び、そして母性の強さだ。

 キックとレコードノイズのような音によるリズムと、逆回転をかけたような電子音のループによりアルバムは始まる。すべて音の手触りはダークだが、どこかあたたかく、密室的だ。そこにビヨークの存在感のある声が乗り、感情を、意思を、余すところなく描いていく。コーラスとストリングスは曲に彩りと広がりを与え、「秘密の場所へ行きましょう」と誘うビヨークの愛はどこか超越的で、崇高なもののようだ。

 この「ヒドゥンプレイス」から二曲目「コクーン」へ。「コクーン」は一番好きな曲だ。とろけるようなウワモノと、ぷつぷつと弾けるリズムトラックに乗る、ビヨークのささやく様なファルセット。蛹の中で幼虫は一端ドロドロに溶けてしまい、生まれ直すのだというが、ドリーミーな音像はまるで胎内のようなあたたかさを思わせる。溢れるような愛の力強さを感じる。リズムの解釈は、現在でも全く古びていないと思う。三曲目では運命の決定不可能性を優しく諭す。後半のストリングスのアレンジは絶品だ。「アーミーオブミー」では軍隊を持って来てぶっつぶすと歌った彼女が、四曲目「アンドゥ」では「降参してしまえばいい」と歌う。この充足感はどうだろう。ミュージックボックスの音色を効果的に使った五曲目「ペイガンポエトリー」は名曲。歌声は祈りのようであり、最後のリフレインまで一気に聴かせる。ミュージックボックスによる美しいインタールードを挟んで、アルバムは後半に入る。ここまでの流れは本当に完璧だ。後半も素晴らしい曲が並び、こもったリズム、暖かなエレクトロニカ、流麗なストリングスとコーラスによる、精巧な細工のようなサウンドはカラーが統一され、アルバムのインティメイトな雰囲気を一切損ねず盛り上げる。

 最良の愛の幸福とは、おそらく相手を包容し、相手によって包容される、そんな関係の中にあるのだろう。ビヨークの「ヴェスパタイン」には愛が溢れている。それはどんな愛であっても良い。あなたは彼女の愛を享受できるし、また彼女の様に愛しても良いのだ。この愛の強度に賛嘆し、祝福しよう。

 

Vespertine

Vespertine

 

 

David Grubbs "The Thicket"

 シカゴ音響派、というジャンルがある。

 ジャンルという言葉はアレルギーを起こしがちだが、シカゴ周辺に特定の傾向を持ったミュージシャン達の緩やかな繋がりがあり、彼らの作り出す音楽をシカゴ音響派という言葉で括った、という風に捉えて欲しい。そもそも「音響派」なるターム自体日本発祥であるというし、あまり厳密な定義は無いのだ(英語版WikipediaではChicago Post Rock sceneと呼称されている)。

 緩やかな繋がりと述べたが、非常に人の繋がりが複雑なのもこのジャンルの面白いところだ。David Grubbsは、今のソロ活動をする前は元Sonic YouthのJim O'roukeとGastr del Solというバンドをやっており、さらに遡るとTortoiseのJohn MacEntire、元TortoiseのBundy K. BrownとBastroを、ハイスクール時代はSlintのBrian McMahan、Britt WalfordとSquirrel Baitというバンドをしている。まさに錚々たる面子であり、その今一地味目な存在感も含め、文字通り台風の目と言いたいようなミュージシャンだ。

 Gastr del Solの片割れJim O'rourkeがSonic Youthへの参加や"Eureka"のリリース等、ポップ、更に言えばポピュラリティへと接近していった様に見えるのと対称的に、Grubbsのソロワークは派手さがなく、よく言えばブレない、悪く言えば地味で取っ付きにくいものが多いと思う。"Guess at the Riddle"とかはまあ聴きやすいけど、何故かやりたいことをやった結果こうなったという感じがするのは不思議だ。俗っぽいのを承知で言えば、GrubbsとO'rourkeの関係はジョンとポールの関係に似ていると思う。

 さて、このThicketというアルバムは、Gastr del Solのラストアルバムであり、もっともJim O'rourke色の強いとされるCamoufleurと同時期にリリースされており、音もどことなく似ている。特に後期のGastrは、アメリカーナ的なものと現代音楽の幸福な融合を模索していた様に思えるが、バンジョーのつま弾きとバタつくドラムスはミニマルな酩酊を誘い、ブルーズのようにメジャーとマイナーは入り交じり微妙な調性感を作り出す。ホーンズやストリングスのラインが交錯する様は土着の狂気が混じったハッピネスを称揚するようでもあり、アブストラクトな室内楽の様でもある。一言で言うなら、カントリーのモダンな再解釈だ。

 こうして素早く様々に展開する音楽は離れた記憶を刺激し、混ぜ合わせていくのだが、散漫な印象は受けない。核となるのはやはりGrubbsの歌とギター、そしてピアノだ。彼の音楽にはエアリー、空気の様なという言葉がぴったりくる。ギターは空気を撹拌し、と思うとあまりに優しいストロークがほのかに空間を彩色する。ピアノは控えめな、しかし弱々しくはない、塊の和音によって微妙な陰影をもたらす。Grubbsは決していわゆる歌の上手いミュージシャンではないと思う。しかし彼の裸の声は、テンション感の強いメロディラインと相まって、心地よく、少し奇妙な浮遊感をもたらす。柔らかく掠れる一本の太い線の様な彼の声は、微妙な音程のズレですら心地よく思わせる。

 このアルバムは、Grubbsの作品の中でも、実験性が非常に軽やかに、無駄無く音楽性へと昇華されていると思う。地味な作品ではあるが、愛聴している盤だ。

 

The Thicket

The Thicket

 

 

エドガー・アラン・ポー、『黒猫・モルグ街の殺人事件 他五篇』、岩波文庫

ポーの偉大さはいささか分かりづらい。

おそらく、あまりに偉大すぎる、ということだろう。大仰な雰囲気、隙のない構成等、現代の我々の眼には却って驚きを減じて映るのである。しかしながら、再読すると、やはり単純に面白く、興奮せずにはいられぬことも事実だった。この短編集に収められた諸作品も、まるでお手本のような短編ぞろいである。プロットは無駄が無く、薄暗闇の中で進行する不安は我々を惹き付けて止まない。最後に待ち受けるひねりの利いたオチまで物語はテンポを緩めず突き進み、読後われわれ読者はもれなく快い知的な興奮に浸されるのだ。

非常に有名な作品ばかりということもあり、僕としては結末を知っている作品も少なくはなかった。しかし、数学的とも言いたい怜悧な文体によって、物語に引き込まれるのだ。この分析的な筆致はポーの短編を成功させている大きな要因であると思う。「黒猫」を例にとろう。語り手は動物を愛する男だったのだが、、酒への惑溺によって愛は怒りへと変化してしまい、彼は黒猫の眼を抉り取ってしまう。このことに対する改悛が語り手を一旦は正気に戻すのだが、またも語り手は酒により以前の豹変ぶりを取り戻してしまう。揺れる心理の複雑さがリアリティを増す。語り手は言う。

私にも、多少はまだ以前の心が残っていて、かつては、あんなにも私になついていたこの動物が、いまではこんなにはっきり私を嫌うのを見て、はじめはさすがに悲しかった。だが、そうした感情は、まもなく激しいいらだちにかわり、ついにはまるで取り返しのつかぬ、私の最後的破滅を招くかのように、いわゆる「天邪鬼」の精神が来た(p.9)。

 「天邪鬼」に憑かれた語り手は、猫が語り手を愛していることを「意識するがゆえにこそ」殺してしまう。こんなことがありえるだろうか?しかし、このパラドクスの異常なリアリティはどうだろう。そもそも小説とは、フィクティヴな空間を準―現実のものとして受け入れさせる/受け入れるという、作者と読者の一種の共犯関係の上に成り立つ。語り手の心理の動きが克明に追われることで、一見以上な行動も必然であるかのように描かれるわけだ。加えて、ゴシック的とも言える異常な状況設定は、読者の未知の地平を開くことで、共犯関係に疑いを差し挟ませないよう機能する。こうして、異常心理を異常なリアリティをもって描き出すことが可能になるのだ。さて、この共犯関係は語り手の心理に関しては強固でも、真実に対してはそうではないというところも小説の肝だろう。「黒猫」でも「裏切る心臓」でも、実は大したことは何も起こっていないかもしれないのだ。異常心理が差し出されながらも、それと客観的現実との間に亀裂が入れられていることによって浮かび上がるのは、小説の真の主題である心理分析の帰納的a posteriori性格である。岩波文庫の扉には「数学的アヘン」というヴァレリーの言葉が引いてあるが(短編について言われたものなのか少し怪しい気もするが)、結末に向けて必然的に収束するこうした構成は、まさにポーの名人芸であると言って良いだろう。

さて、「黒猫」は語り手=主人公であり、罪を犯す者は語り手であるが、これを第三者とすればどうだろう。ポーは探偵物語の祖とされているが、ポーにおける探偵の機能とは、先ずは帰納的な心理分析なのである(デュパンは、「分析力の並外れた」人間である)。探偵の発明は、突発的というよりは必然的な帰結であると言うべきだろう。

本短編集は、いわゆるデュパンものをすべて収録しており、なおかつ代表的な短編を収録しているため価値があったように思う。「天邪鬼」はあまりに観念的過ぎ、「マリー・ロジェ」は統一を欠き、テンポの悪さが目立つように思われたが、他の短編はどれも面白かった。特に、「盗まれた手紙」は本当に抜群。岩波から出ているもう一冊の短編集も近いうちに読んでみたい。

 

黒猫 (岩波文庫 赤 306-1)

黒猫 (岩波文庫 赤 306-1)

 

 

フランツ・カフカ、『アメリカ(失踪者)』、角川文庫

ドイツ人の少年カール・ロスマンが、アメリカへ到着し、叔父のもとへと引き取られるも追放される。道中フランス人ドラマルシュ、アイルランド人ロビンソンという二人の男と出会うが、彼らに愛想を着かし別れてしまう。その後ロスマンはホテルのエレベーターボーイとなるも、ロビンソンの引き起こした騒動のせいでそのホテルから首を言い渡される。ドラマルシュ、ロビンソン、彼らの女主人ブルネルダの所に転がり込んだロスマンは、彼らの召使いになるのを拒否し、逃亡を企てる。欠落部を挟んで舞台は有名な「オクラホマの野外劇場」へ。サーカスにリクルートされ、オクラホマへ旅立つ電車の中で物語は終わる。

 

比較的プロットは練られ、精彩に富み、読みやすい。

初期の作品だが、執筆時期が「判決」と重なるだけあり、いわゆるカフカ的な面白さは味わえる作品であるように思う。論理の脱臼(夢の論理、或いは子どもの論理[バタイユ]?いずれにしろ、ごく主観的な領域が問題になる)、グロテスクに誇張された身振り(ベンヤミン)等々。しかしやはり『審判』や『城』に比べ雑味があるとも言えると思う。

最後の「オクラホマの野外劇場」のシーンはおそらく、救済がテーマになっているのだろう。長編3作はいずれも救済というパースペクティヴで読むことが可能か。ブランショの「死の彷徨」概念とも通じるかもしれない。

 

アメリカ (角川文庫)

アメリカ (角川文庫)