Björk "Vespertine"

 「メダラ」より後のアルバムは追えていないんだけど、ビヨークでは「ヴェスパタイン」が一番好きだ。

 というより、他のアルバムはいまいち乗り切れないというか、ちょっとついていけないな、と感じる時がある。ビヨークはコケティッシュであり、チャイルディッシュであり、デモーニッシュだ。男は平伏すしかない(女性は無条件に喝采、となるのだろうか?)。そういう押し出しの強さに、器の小さな男である僕としては、少し引いてしまうところがあるのだと思う。勿論、それは同時に、彼女に惹かれる理由でもあるのだけど。

 「ヴェスパタイン」のビヨークは優しい。日本盤のライナーには、セルマを演じた結果だろうと書かれていたが、そうかもしれない。いずれにしろ、愛とセックスが大きなテーマになっているのは間違いない様だ。英語版のWikipediaによれば、原題は「ドメスティカ」であったようだが、曲群が既にそれ自体十分ドメスティックであったため、祈りのニュアンスを持った「ヴェスパタイン」となった様だ。「ペイガン・ポエトリー」のビデオは、ラブライフがテーマであったという(実際に、彼女自身のプライベートのセックスの映像が素材となっている)。アップ・テンポでアジテートするビヨークも、コケティッシュな振り回すビヨークも、チャイルディッシュに笑うビヨークもここにはいない。彼女の半ば獣じみた純粋さが向かうのは、愛の喜び、そして母性の強さだ。

 キックとレコードノイズのような音によるリズムと、逆回転をかけたような電子音のループによりアルバムは始まる。すべて音の手触りはダークだが、どこかあたたかく、密室的だ。そこにビヨークの存在感のある声が乗り、感情を、意思を、余すところなく描いていく。コーラスとストリングスは曲に彩りと広がりを与え、「秘密の場所へ行きましょう」と誘うビヨークの愛はどこか超越的で、崇高なもののようだ。

 この「ヒドゥンプレイス」から二曲目「コクーン」へ。「コクーン」は一番好きな曲だ。とろけるようなウワモノと、ぷつぷつと弾けるリズムトラックに乗る、ビヨークのささやく様なファルセット。蛹の中で幼虫は一端ドロドロに溶けてしまい、生まれ直すのだというが、ドリーミーな音像はまるで胎内のようなあたたかさを思わせる。溢れるような愛の力強さを感じる。リズムの解釈は、現在でも全く古びていないと思う。三曲目では運命の決定不可能性を優しく諭す。後半のストリングスのアレンジは絶品だ。「アーミーオブミー」では軍隊を持って来てぶっつぶすと歌った彼女が、四曲目「アンドゥ」では「降参してしまえばいい」と歌う。この充足感はどうだろう。ミュージックボックスの音色を効果的に使った五曲目「ペイガンポエトリー」は名曲。歌声は祈りのようであり、最後のリフレインまで一気に聴かせる。ミュージックボックスによる美しいインタールードを挟んで、アルバムは後半に入る。ここまでの流れは本当に完璧だ。後半も素晴らしい曲が並び、こもったリズム、暖かなエレクトロニカ、流麗なストリングスとコーラスによる、精巧な細工のようなサウンドはカラーが統一され、アルバムのインティメイトな雰囲気を一切損ねず盛り上げる。

 最良の愛の幸福とは、おそらく相手を包容し、相手によって包容される、そんな関係の中にあるのだろう。ビヨークの「ヴェスパタイン」には愛が溢れている。それはどんな愛であっても良い。あなたは彼女の愛を享受できるし、また彼女の様に愛しても良いのだ。この愛の強度に賛嘆し、祝福しよう。

 

Vespertine

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