ジョルジュ・バタイユ、『眼球譚/マダム・エドワルダ』、講談社文庫

 評論を除くと、これが僕の初めてのバタイユだった。

 まあなんとも驚くほど、エロい。猥褻とかではなく、エロいと言ってしまいたくなる。古文書学校、コジェーヴの生徒、みたいなイメージが吹っ飛んで、身近に感じたのだ(下司い感想だが)。

 

 主人公の「私」は、シモーヌという女の子と懇意になる。シモーヌとは、私とはかくかくで、しかじかの事情があり、みたいな七面倒くさいことはすっ飛ばして、はじめからアクセル全開で変態行為が開陳されていく。血と汗、尿と精液が乱れ飛び、生と死、摂取と排泄、人間の根源的なすべてが、性の怪しい輝きのもとで混ざりあう。

 開始8ページで二人は、純粋な少女マルセルを(勿論性的な意味で)もみくちゃにし、以降前半では、セックスのデモンに取り付かれたミューズとも言うべきシモーヌ、その協力者でありしもべである「私」、翻弄される可憐な犠牲者マルセルの3人を中心に、性的遊戯のロンドが展開される。シモーヌの家で乱痴気騒ぎをやらかした結果、「私」は家出をしてシモーヌの家に居候し、マルセルは精神病院に隔離される。マルセルの不在の中、「私」とシモーヌは、彼女こそが彼らの遊戯を完璧なものにしていたことを痛感し、マルセルを連れ戻すことを決意する。一度失敗した後、二人は彼女を救い出すのに成功するのだが、ほどなくしてマルセルは自殺してしまう。乱痴気騒ぎの際、この上ない恐怖を味わわせた張本人が「私」であることを悟ってしまったからだ。

 二人は警察沙汰を免れようと、イギリス人の変態紳士(エドモンド)の援助を当てにして、スペインに赴く。シモーヌはマルセルの死以来、倦怠に取り付かれている。彼女の目下の興味は、益々激しさを増す性的放埒と、闘牛であった。闘牛の放つ死とエロスの匂いが彼女を、そして語り手を、興奮させるのだった。シモーヌはある日、闘牛で殺された牛の睾丸を食らう習慣のことを聞き及び、非常な興味を示す。闘牛士グラネロによって睾丸はもたらされる。シモーヌは我慢できず睾丸にかぶりつき、と同時にグラネロは牛に突かれ絶命し、シモーヌは絶頂を迎える・・・。

 倦怠に憑かれたシモーヌの要望で、3人はセビーリャに向かう。ドン・ファンの墓のある教会に3人は入り、そこでシモーヌは牧師に告解を申し出る。牧師を誘惑するシモーヌ。牧師は連行され、無抵抗のまま陵辱され、殺される。抉り取った死体の眼球を、自らの中に入れるシモーヌ。「私」はシモーヌの性器から覗く眼球に、マルセルの薄青色の眼を認めるのだった・・・。

 

 まず言っておきたいのは、少なくとも僕が読んだ印象として、この物語に、所謂リアリティが欠如しているということ。シモーヌを中心に織りなされる限りない放埒は、まず社会的に許されないだろうし(cf. 『恐るべき子どもたち』)、そこに心理的な葛藤が完全に欠落していることも、冷静に見れば余りに異常だ。しかし、我々はこの小説の中に、あるリアリティが存在することも否定できない。我々が直視することを避けているもの。しかし、この小説の中で、あまりに直裁に、豊饒に表現されているため、直視せずにはいられないもの。それは、「侵犯への意思」ともいうべきものだ。『眼球譚』は、道徳が欠落した一種のユートピアの中で、この意思を自由に羽ばたかせる実験とも読める。

 侵犯とは何か。それは、絶対的なタブーを冒すことである。辿り着くことが禁止されているものを、それが禁止されているが故に希求すること。「私」の重要な省察を引用しておこう。

私が好きなのは「穢らわしい」と看做されているものだった。逆に、通常の放蕩ではけっして充たされなかった。なぜならそれはただたんに放蕩を穢すだけで、いずれにせよ、高尚な完璧に清潔ななにものかは無疵のままで残されるからだ。私が体験する放蕩は私の肉体と思考だけでなく、放蕩の対象として考えうる一切のものを穢し尽くすのだ、とりわけ星輝く大空を・・・

 さてここで、エロスとタナトスは、聖と死をともに侵犯しようとするものである点で、重なりあう。この二つは作中に偏在するが、現れの仕方がすこし異なるのは注意しておいていいだろう。性の営みはほとんど常に、二人の中心的な人物によって、為されている。しかし、死ぬのはいつも他人である。このことは、次の様に説明できるかもしれない。セックスとは、互いの肉体という障壁を突破し、合一しようとする戦いである。セックスする二人の人間は、一つの意思として存在し、ここでは自他が溶解しつつある。侵犯する行為において自他の区別が曖昧になるのだとすれば、それは死においても然りだろう。マルセルの、グラネロの、神父の死を、「私」とシモーヌは我がことのように貪るのだ。

 しかし、この侵犯行為の果てに何が待つのか。倦怠である。侵犯されたタブーは、原理的にもはやタブーではありえない。だから、侵犯への意思の権化であるシモーヌは、新たに蹂躙する対象を探すことでしか、自らの存在意味を認めることができないのだ。この衝動が、物語の進行を決定づける。そして、その動力は、エロスとタナトスであり、それは性的衝動と暴力によって表現される。この小説を、幾つかのセクションに分けるとすれば、以下の様になるだろう。すなわち、①導入〜マルセルの陵辱②マルセル奪還〜マルセルの死③闘牛④ドンファンの教会。こうしてみると、大まかなテーマ群が見えてくる。①、②では、一般的な道徳に関するタブーに対する侵犯が問題になる。同様に、③、④ではそれぞれ、死と、聖なるものが侵犯の対象となる。

 小説の流れに沿って、もう少し詳しく見ていこう。マルセルは、「私たちの友人の中でいちばん清純で、いちばん可憐な」(p. 20)少女である。このマルセルを陵辱し、また性の放埒の中に引き入れること、この侵犯行為があってこそ、その行為の絶頂感は「激しさの点で、かつて想像した何物をも凌ぐ」(p. 39)のである。マルセルが狂気に陥ること、そして最終的に自殺することは必然だ。なぜなら、彼女は永遠に無垢であることが必要だからだ。そしてマルセルは首をくくる。ここで死への侵犯というテーマが導入されるのだが、この時点では展開されない。何故か?それは、マルセルの死は人知れず行われるからだ。「私」にとって、倦怠は、すべて死に結びつく(p. 77)。死とは侵犯の結果であるが、あるタブーが侵犯されたとき、そのタブーはタブーではなくなる。つまり、侵犯は侵犯ではなくなるのだ。また、語り手は、死は死者を「全権を有する」ものにすると言う。死によって、人は、イメージと、名と化す。そうしてマルセルは二人の中で永遠性を帯びることになるのだ。

 さて、二人の主人公が死を激烈に体験するのが、スペインの闘牛の場面である。闘牛士の身を躱す姿の中に、観客は、セックスの、全身的投入感を感じる(p. 83)。ここで戯れているのは死であるが、性による生の高揚と死の勝鬨は、侵犯の哲学においては存在の突端として合一するのだ。こうした対立する様々なイメージは、シモーヌの持ってこさせる牛の睾丸に濃縮される。睾丸は生殖器であり、また牛の死の象徴である。赤白く光る睾丸はまた、現実離れした光を投げかける、圧倒的な太陽と重なりあう。牡牛の角がグラネロを貫き、その眼球が眼窩からこぼれ出るのと全く時を同じくして、シモーヌは片方の睾丸にかぶりつき、もう片方を女性器の中に取り込む。侵犯による超越がまさしく果たされた瞬間として、この場面は鮮烈なイメージを残す。

 最後に二人が侵すのは、聖なるものだ。先ほど死が性的なもので置き換えられた様に、聖なるものも性的なものによって置き換えられる。エドモンドは言う。聖体パンはキリストの精液であり、葡萄酒は尿なのだと。死に対するほどの厳かさはここにはなく、むしろパロディックであることに注意していいだろう。バタイユは経験なクリスチャンから無神論者へと転身したというが、彼のクリスチャニスムに対する態度が伺えると言ってもいいのかもしれない。

 ここで付言しておきたいのは、便宜上われわれは道徳、死、聖なるものとして侵犯の対象を分けたのであるが、物語の構成上テーマが分たれるように見えるにせよ、その三つが必ずしも截然と分かれるわけではないということは当然だろう。

 

 さて、この物語の名は『眼球譚』であるが、では「眼球」とは何なのか?一つには、物語に構造的統一性を与えるライトモティーフとして機能していると言えるだろう。卵、睾丸、太陽、尻、様々な白く、丸みを帯びたものたちに対する特別なフェティッシュが、シモーヌの動因になり物語を引っ張っていく。しかし、僕の感想としては、それが眼球でなくてはいけなかったかというのは疑問符だ。確かに最後の女性器から覗く眼といったイメージは強烈だが、眼球に対してそこまでの意味は僕には見出せず、その点でこの眼球の物語には少しの破綻が見える気がする。あとがきに書いてある様に、本当に眼球に対するオブセッションのみが理由であるとしたら、その他のイメージの結びつきが緊密で強烈である分、少し興を削ぐ。しかし、その僅かな痂皮(僕に取っての)が気にならないほど、エンターテイニングで、かつ深く、充実した書物だった。

 僕の所有しているのは講談社文庫版なのだが、リンクには河出のものを貼っておく。

 

眼球譚(初稿) (河出文庫)

眼球譚(初稿) (河出文庫)