ポール・オースター 『幽霊たち』 新潮文庫

ポール・オースターという名前はずっと気になっていた。

現代アメリカを代表する作家、ベケットとの親和性、云々。様々な情報は耳に挟んでいたのだが、実際に読んだのはこの『幽霊たち』が始めてだった。全体的な感想としては、全面的に大賛成、大好き、という感じではないが、面白いと思う点は沢山あった。

僕自身整理するためにも、粗筋を書いておく。私立探偵のブルーが、ホワイトという男の依頼によって、ブラックという男を見張ることになる。ブルーはブラックの部屋の向かいに部屋を借り、ブラックの行動を逐一報告書に記載し、それをホワイトに送る。しかし、ブルーが見張っている間、ブラックはほとんどずっと自室で書き物をしているだけである。それ以外の行動と言えば、必需品を買いにいき、ソローの『ウォールデン』を読むくらいのものだ。ブルーは徐々に、ブラックの、ホワイトの意図、この依頼の意味をいぶかしむ様になる。彼は様々な物語を考える。ブラックとホワイトは裏で繋がっているのではないか・・・。監視の日々は続き、徐々に彼は、ブラックと奇妙な一心同体の状態になっていることに気づく。ブラックが何をしているのか、実際にそれを見ることなく理解できるようになっているのである。彼は行動に出る。報告書を受け取りにくるホワイト、または彼の代理人を待ち受け、変装してブラックと接触する。その結果、彼は確信を得る。ブラックとホワイトは同一人物である。ブルーはブラックの部屋に入り、机の上の紙束を持ち帰る。それは彼の報告書である。ブルーは、ブラックの部屋に入ることを決める。部屋の中にいるのは、拳銃を持ったブラックだった。ブルーはブラックに問う。何のために自分は必要だったのか?ブラックは言う。

自分が何をしていることになっているか、私が忘れないためにさ。(…)いいかね、ブルー、君は私に取って全世界だった。そして私は君を、私の死に仕立て上げた。君だけが、唯一変わらないものなんだ。すべてを裏返してしまうただ一つのものなんだ。 (p. 118)

 ブルーはブラックの行為に賛成せず、殺してみろとばかりに詰め寄る。ブラックは撃たない。ブルーは彼をしたたかにぶちのめし、去っていくところで物語は終わる。

予め告白しておくと、僕はこの小説の意味(漠然とした言葉だ)はよく分からなかった。一応一言言っておくと、ブルーとブラックはカードの裏表のような関係であり、監視しているブルーは監視されており、云々。という話が裏側にはあるのだろう。と、ひとまずは逃げておく。オースターの他の作品を読めば見えてくることも多いようだし、あまりアホなことを言っても誰も得しないしね。

解釈すべきものは多分沢山あって、しかし正直あまりそこに興味はそそられなかった。僕にとっての文学の一つの大きな喜びは、言葉が、言葉によって還元されてしまうような観念を、突き抜ける瞬間にある。だから、謎解きはそれはそれとして面白くて、隠された意味というか、構造による支えのない小説というのも詰まらないのだけど、単なる暗号で終わってしまう様な小説も詰まらない。そう言う意味では、この小説に関しては、僕自身の第一印象では、すこし観念的だなと思わないでもなかった。

しかし面白いところも沢山あったのも事実だ。思いつくままに書いてみよう。まずは語り手の距離感だ。視点はほぼブルーに固定される。しかし、そんなものは単なる約束事で、あまり重要ではないのだという風に、視点は時に軽やかにお約束から遊離する。「先ず始めにブルーがいる。(…)物語はそのようにして始まる(p. 5)。」具体的な物事を語るのが物語であれば、その物語それ自体を相対化し、抽象化するこの語り手は一体なんなのか?少し構造的なところに眼を向けてみよう。小説は現在形で進行する。現在形とは不安定な時制だ。語られるものごとは、未だ首尾一貫した「物語」になっていないのだ。また、三人称小説において、地の文は、原則として、客観的な真実を語る。さて、ブルーの彼女は、「未来のミス・ブルー」という風に言われるのだが、これは誤りだ。彼女とは破局するのだから(「かつての未来のミス・ブルー」!)。事実はかくかくという事実として現実に定着されていない。現在形の文の積み重ねは、点描の様にデジタルに物事を描き出してゆくのだ。物語は始まる。しかし、物語がどこへ行くのか、ブルーも、読者も、語り手も、誰一人ご存じないのだ。この文体のあげる効果は、小説のテーマとも合っていよう。この点に関して僕は現代的だなと思ったのは、多分難しいことがされているんだが、あくまで印象は軽いのだ。大仰な実験臭や大義名分めいたものはない。狙っていたとしても、異化効果?なにそれおいしいの?みたいなポーズをするということ。80年代の「エレガントな前衛」(柴田元幸氏)って、こういうことなのかな、と思った。

こんな風に、技法的には結構アクロバティックな印象を受けたりしたのだけど、何気ない描写が上手いな、と思うところが沢山あった。特に補足もなく引用する。ブルーが彼女の浮気を目撃するシーン。「空が彼の頭上に落ちてくる」(p. 59)。ブルーはブラックのアパートに潜入する。「まるで毛穴を通して夜そのものが彼の内部に押し入ってきて、とてつもない重さをたたえて彼の上に座り込んでしまったかのように」(p. 106)。

あと、一見関係のないエピソードを連ねる手法。こういう手法はどういう系譜に連なるものなのかは分からないけど、それぞれのエピソードがアレゴリーとして、象形文字の様に機能するということ。この働きについてはもう少しつめて考えなければならないが、僕自身の思索を深める上で面白かった。