エドガー・アラン・ポー、『黒猫・モルグ街の殺人事件 他五篇』、岩波文庫

ポーの偉大さはいささか分かりづらい。

おそらく、あまりに偉大すぎる、ということだろう。大仰な雰囲気、隙のない構成等、現代の我々の眼には却って驚きを減じて映るのである。しかしながら、再読すると、やはり単純に面白く、興奮せずにはいられぬことも事実だった。この短編集に収められた諸作品も、まるでお手本のような短編ぞろいである。プロットは無駄が無く、薄暗闇の中で進行する不安は我々を惹き付けて止まない。最後に待ち受けるひねりの利いたオチまで物語はテンポを緩めず突き進み、読後われわれ読者はもれなく快い知的な興奮に浸されるのだ。

非常に有名な作品ばかりということもあり、僕としては結末を知っている作品も少なくはなかった。しかし、数学的とも言いたい怜悧な文体によって、物語に引き込まれるのだ。この分析的な筆致はポーの短編を成功させている大きな要因であると思う。「黒猫」を例にとろう。語り手は動物を愛する男だったのだが、、酒への惑溺によって愛は怒りへと変化してしまい、彼は黒猫の眼を抉り取ってしまう。このことに対する改悛が語り手を一旦は正気に戻すのだが、またも語り手は酒により以前の豹変ぶりを取り戻してしまう。揺れる心理の複雑さがリアリティを増す。語り手は言う。

私にも、多少はまだ以前の心が残っていて、かつては、あんなにも私になついていたこの動物が、いまではこんなにはっきり私を嫌うのを見て、はじめはさすがに悲しかった。だが、そうした感情は、まもなく激しいいらだちにかわり、ついにはまるで取り返しのつかぬ、私の最後的破滅を招くかのように、いわゆる「天邪鬼」の精神が来た(p.9)。

 「天邪鬼」に憑かれた語り手は、猫が語り手を愛していることを「意識するがゆえにこそ」殺してしまう。こんなことがありえるだろうか?しかし、このパラドクスの異常なリアリティはどうだろう。そもそも小説とは、フィクティヴな空間を準―現実のものとして受け入れさせる/受け入れるという、作者と読者の一種の共犯関係の上に成り立つ。語り手の心理の動きが克明に追われることで、一見以上な行動も必然であるかのように描かれるわけだ。加えて、ゴシック的とも言える異常な状況設定は、読者の未知の地平を開くことで、共犯関係に疑いを差し挟ませないよう機能する。こうして、異常心理を異常なリアリティをもって描き出すことが可能になるのだ。さて、この共犯関係は語り手の心理に関しては強固でも、真実に対してはそうではないというところも小説の肝だろう。「黒猫」でも「裏切る心臓」でも、実は大したことは何も起こっていないかもしれないのだ。異常心理が差し出されながらも、それと客観的現実との間に亀裂が入れられていることによって浮かび上がるのは、小説の真の主題である心理分析の帰納的a posteriori性格である。岩波文庫の扉には「数学的アヘン」というヴァレリーの言葉が引いてあるが(短編について言われたものなのか少し怪しい気もするが)、結末に向けて必然的に収束するこうした構成は、まさにポーの名人芸であると言って良いだろう。

さて、「黒猫」は語り手=主人公であり、罪を犯す者は語り手であるが、これを第三者とすればどうだろう。ポーは探偵物語の祖とされているが、ポーにおける探偵の機能とは、先ずは帰納的な心理分析なのである(デュパンは、「分析力の並外れた」人間である)。探偵の発明は、突発的というよりは必然的な帰結であると言うべきだろう。

本短編集は、いわゆるデュパンものをすべて収録しており、なおかつ代表的な短編を収録しているため価値があったように思う。「天邪鬼」はあまりに観念的過ぎ、「マリー・ロジェ」は統一を欠き、テンポの悪さが目立つように思われたが、他の短編はどれも面白かった。特に、「盗まれた手紙」は本当に抜群。岩波から出ているもう一冊の短編集も近いうちに読んでみたい。

 

黒猫 (岩波文庫 赤 306-1)

黒猫 (岩波文庫 赤 306-1)